境 内 案 内
山門の桜

山門の桜と住職一家
 大洞院の山門には、3本の桜の老木が有ります。昭和10年(1935)頃に花野井青年団が花野井木戸から大室までの桜並木を作るために植樹したとき、そのうちの4本の苗木を山門に植え、それが成長して桜の山門となったものです。太平洋戦争の終わりには、空襲を避けるために桜の木の陰に隠れた記憶のある人もいます。桜の山門は大洞院の歴史を物語っています。

六地蔵塔
 山門の右側にあります。6体揃った地蔵塔で、法性地蔵立像には「下ш居郡小金領花野井村 明和5年2月 花井山大洞院11世代」と建立年(1768)が記載されています。延命地蔵立像には「奉造立六道納化地蔵菩薩 願主念仏講中原口35人・新田10人、作兵衛」と寄進者が刻んであります。

十九夜塔
 山門の右側にあります。如意輪観音を浮き彫りした石塔で、「奉供養十九夜塔」と刻まれています。台座には、寄進者58名の芳名があり、文政2年(1819)10月、「華井山二十世弘道代」と建立当時の住職名が刻まれています。

戒壇石
 山門の右側にあります。「不許葷酒入山門」の書が彫られており、日曹長雲七十九歳書と銘文が刻まれています。文化11年(1814)2月、「華井山大洞禅院十八世蟠龍代」と建立時の住職名があり、台座には、寄進者29名の芳名が刻まれて
います。

地蔵塔
 山門の左側にあります。「南無地蔵願主大菩薩」と彫られており、右側面には、「道師 大洞院十九世高山圓明叟」と、建立時の住職名が刻まれています。地蔵塔は、文化13年(1816)10月の建立で、台座には、願主28名の芳名が刻まれています。


壁画「遊戯(ゆげ)」
 参道東側の墓地の塀に描かれています。三十世大徹誠治大和尚の入山20年を記念して寄進された壁画です。洋画家の長縄えい子画伯が平成16年(2004)に着手し、全長35mの大壁画を平成17年(2005)に完成させました。子供達がこの世とあの世を往来しながら、無邪気に遊ぶ姿を描き、人には生と死があることを表現しています。命の大切さを再認識することで、大人が子供の成長を温かく見守る、そんな世界が描かれています。

筆子碑
 歴代住職墓地の中にあります。筆子碑には文久元年(1861)5月と刻まれています。師匠は、二十世無学弘道大和尚で文化12年(1815)から文久元年(1861)まで、大洞院住職を務めており、この間に大洞院で寺子屋を開設していました。筆子碑の台座には、世話人松丸嘉惣治をはじめ筆子30人の芳名が刻まれています。

大イチョウ
 大洞院のシンボルの大イチョウは、樹齢450年を超えるといわれています。この大イチョウは江戸時代の利根川水運で花野井村の目印とされていたそうです。現在でも大利根橋から良く見えます。
 平成16年に実施された「鎮守の森樹木調査研究」によると、柏市内で幹回りが一番太いイチョウ(5.32m)とされています。昭和56年(1981)に、柏市指定保護樹木(指定番号290番)になっています。

弁天堂
 元治元年(1864)に建築された弁天堂は、昭和50年代に老朽化のため、取壊されました。現在の弁天堂は、平成10年(1998)11月に落慶式が行われました。
 弁天堂には、頭上に宇賀神と鳥居を載せた八本腕座像の弁財天を祀っています。手には長鉾、宝珠、宝蔵の鍵などを持っている彩色の塑造です。
 旧弁天堂に取付けられていた鰐口には、天保十年(1839)、巳待講24名の寄進者名が刻まれており、さらに古い時代から弁天堂があったことを物語っています。この鰐口は新弁天堂に取付けられ、今も天保時代の音を響かせています。

無邊洞
 伊藤博文内閣の大蔵大臣などを歴任し、明治政府の財政基盤を確立した渡邊國武子爵の自邸を示す「無邊洞」碑です。渡邊國武子爵は禅仏教への造詣が深く、「無邊洞」は仏教書の碧巌録に由来します。
 「無邊洞」碑は、渡邊國武子爵の曽孫の寄進により、平成26年(2014)11月に弁天堂横に移設されました。

いぬねこぢぞう
 平成15年(2003)に版画家の大野隆司氏がデザインして、石像仏師の濱松勇氏が真鶴産本小松石に彫刻した石像です。あえて磨きはかけず、年月を重ねると本小松石の趣が引き出される仕上がりになっています。台座は長野の鉄平石を使用しています。光背には「いっしょにくらしていっしょに笑ったネ」「ずっとずっとわすれないよ」と彫られています。

ギャラリー
 本堂西玄関を入った中にあります。檀家をはじめ東葛地域で活躍する作家の文化や芸術を発信するスペースとして、平成24年(2012)に開設されました。ギャラリーの運営は、画家の長縄えい子さん、版画家の大野隆司さんなどに協力いただいています。ギャラリーは、毎月展示を替えて、開催しています。

本堂
 現在の本堂は、平成2年(1990)に竣工しました。中世の大洞院は、現在地よりも約200m北の弁天山(尾井戸)近くにあったと言われています。弁天山からは、多数の板碑が出土しており、大洞院に保存されています。
 また、柏市教育委員会の尾井戸遺跡の発掘調査では、住居址から古墳時代鬼高期式の祭器用具である「手捏ねの土器」や剣形品の滑石模造品、奈良平安時代の住居址から「寺」「◎」の書かれた墨書土器が出土しています。古墳時代後期の花野井尾井戸
には祭祀を司る場所があり、そこに平安時代に僧侶が住みついて寺院になったと考えられます。その後、建物の老朽化や災害などによって、室町時代に現在地に移転したものと思われます。昭和63年まで使われていた本堂は、火災後の寛延4年(1751)7月の再建とされています。大洞院本堂は、波乱万丈の長い歴史を経て、本日に引継がれています。






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