令和元年  長月     
住職のつぶやき
          花井山 大洞院 三十一世住職 櫻井大文
当(まさ)に知(し)るべし今生(こんじょう)の我身(わがみ)二つ無し、三つ無し、徒(いたずら)に邪見(じゃけん)に堕(お)ちて虚(むなし)く悪業(あくぎょう)を感得(かんとく)せん、惜(おし)からざらめや、悪を造りながら悪に非(あら)ずと思い、悪の報(ほう)あるべからずと邪思惟(じゃしゆい)するに依りて悪の報を感得せざるには非ず。
                              (修証義第1章総序五節)

 解釈すると、「人生において自分の心身はたった一つです。『悪行による報いなどない』と間違った考えを信じて、悪い心や行いに染まったり、悪行を重ねてはいけません。過ちを行いながら、『自分は過ってない』と幻想して、自らの過ちを自己弁護しても、悪行の報いは必ず受けます。」という意味になります。
 連日、危険なあおり運転などによる交通事故のニュースが絶えません。自分の悪行が自制できず周りに危険を及ぼしてます。同乗者さえその悪行に気付いていないようです。ある日突然、高速道路上のあおり運転事故で両親が亡くなり、姉妹だけが残された事件が悔やまれます。
 「我」を知ること、誤った自己主張を止める力を養いましょう。そうすると他人への「慈悲」の心が芽生えます。