平成30年  長月
     住職のつぶやき
                              花井山 大洞院 三十一世住職 櫻井大文
 「無常憑み難し(むじょうたのみがたし)、知らず露命いかなる道の草にか落ちん、身已に(みすでに)私に非ず、命は光陰に移されて暫く(しばらく)も停め難し、紅顔いずくへか去りにし、尋ねんとするに証跡なし。熟(つらつら)観ずる所に往事の再び逢うべからざる多し、無常忽ちに到るときは国王大臣親暱従僕妻子珍宝(こくおうだいじんしんじつじゅうぼくさいしちんほう)たすくる無し、唯独り黄泉に趣くのみなり、己に随い行くは只是れ善悪業等(ぜんあくごつとう)のみなり」。
                     (修証義第1章総序三節)



 解釈すると、命の儚さは無常で露のようなものです。いつどこの道草に落ちるのか、自分の命さえ自分の思い通りにはならないのです。命は時の流れに流されて一時もとどまる事は無いのです。
 いつまでも若いままでなく、その面影をいくら探しても手に戻ることはありません。よくよく考えてみると過ぎ去った時間は二度と戻らないのです。儚さは一瞬でやってきて、権力者でも、政治家でも、親戚友人でも、忠実な部下でも、妻や子でも、財産でも助けることはできません。ただ一人きりで黄泉の国に行くのです。自分についていくのは、ただ心で為した善と悪と行為と習慣だけなのです。
 先日テレビドラマで突然死してしまった連れ合いの枕もとで「何の冗談でしょうか?」と言うセリフがありました。涙が止まらなくなりました。
 「元気で頑張ろう」と言っていた人が突然行ってしまうなんて、「じゃあ行くね、バイバイ」と言ってお別れは出来ないですよね。私達の命は朝露のごとくいつ落ちるかわからないものです。目を閉じて意識が無くなり呼吸が止まり心臓が止まり、次に私達が目にするものは何でしょう。
 枕経(亡くなった方の枕もとで一番初めに読むお経)で家族が手を合わせている姿でしょうか。その姿を信じ、今日もお経をあげています。


                                 大慈大文  九拝